鬱病エッセイ

鬱病エッセイ

自分はいずれ死ぬし、死はとても怖い。小学一年生の時に参加した葬式で祖父のまっしろな顔を見たときからずっと頭の片隅に留まっている命題だ。忘れてしまえたときこそあれど、この命題はふとした瞬間に頭の中で急速に膨らみ、たちまち心を死の恐怖で満たす。特に酷かったのは18歳の頃と、25歳の卒業前だ。受験を前にし、苦手な物理と向き合う最中で、宇宙や自然の中における自分の存在は全く意味の無いものに思え、自分・世界の意義がわからなくなって心を病んだ。また、それまではなんとなく永久に続くような気がしていた大学生活がようやく終わり、4月からは社会人として働くことが決まったとき、どんなものにも終わりがあること・社会人の次は老後/死であることが急に迫ってきて、何をしても結局死によって無に帰される無力感に襲われた。

死ぬのが怖い、というのはレトリックな辛さがあり、例えば死にたいというなら死ねば解決するところだが、死ぬのが怖い奴はそうもいかない。死にたくないんだから生きるしかないが、生きているといずれ訪れる死に怯えるはめになる。すなわち死ぬまでずっと苦しいのに、その死を先延ばしにしなければならない。

死の恐怖にみたされ、悩み続けた一つの過程を記す。
死を乗り越えるために、以下の方法が有効なのではないかと考えた。
①くすりで死の恐怖を減らす
②長生きして生きている実感もなくなる痴呆を待つ
➂拳銃を撃ち込んで一瞬にして死ぬ

①は、抗うつ薬のようなものも含んではいるが、いわゆるドラッグの類を指している。死の恐怖は和らぐかもしれないが、くすりを飲む前はおそらく服毒のような恐怖があるだろうし、くすりが切れてしまったらもっと酷い有様をさらすかもしれない。ボツ

②おそらく最も有効だが、そこまで生きるのが大変だという話をしている。

➂身も蓋もない。

結局、人間という器から脱却することはできない。永遠に夢を見られる装置が開発されたとして、永遠の夢にダイブするのと死ぬのとは特に変わりないと思う。変わるのは本人の心構えのみ。死か、それに類する現象を受け入れる心構えは必要なのだ。


死を受け入れなければならないなら、がんばって生きるほかない。死の恐怖と戦い、ごまかしながら、なんとか生きるしかない。生き物が生きる理由なんて特にないし、世界が存在する意味もない。創造主がいると仮定すれば創造主の創造主が必要になって矛盾、トゥルーマンショーにしては宇宙/地球はデカすぎるので矛盾。世界はすでに存在してしまっているし、その歴史が人間、ひいては生物の歴史より遥かに長いであろうことはどうやら事実らしい。

 

ひとたび生まれてしまったからにはもう死を受け入れて生きていくほかない。死を受け入れるために、僕らは楽しいことをしたり頑張ったりする。結婚する、子供を作る、家を買う、楽しく暮らす。今までそこに価値を見出してこなかったが、自分の死を受け入れる過程においてこんなに重要なことはない。自分の死を共有するパートナーと結ばれる。第二の人生とも呼べうる子供を作る。そんな人生の支えとなる家を買う。死を受け入れるために、これらは必要な過程なんだろうと思えてきている。


そもそも80歳で死ぬとしたら25歳って全然若いな。まだ怖がるほど死は近くない。身体が老いてきているのを実感、社会人生活のスタート。不安だしもう死んでいるに等しいのかもしれないがまだ死を覚悟するには早いか。当面は結婚を目標に、自分のパートナーにとって結婚に値する人間になれるよう頑張りたいと思う。